家族の“しあわせ”願う、おせちの話

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家族の“しあわせ”願うおせちの話
こうや豆腐とおせちのまめ知識




家族の“しあわせ”願う、おせちの話

こうや豆腐とお正月 「家族の安全と健康を守ってくれる」こうや豆腐 監修:元高野山大学教授・日野西眞定

こうや豆腐とおせちのまめ知識

◆お正月とおせちの由来

そもそも、お正月って何でしょうか。私たちは、何気なく新しい年を迎えていますが、お正月の本来の意味を考えたことは、あまりないように思えます。日本人は、古来より農耕民族で、米、麦、大豆、粟、稗(ひえ)の五穀を主食として食べてきました。もともと私たちのご先祖様に、前年の秋冬の収穫を感謝し、新しい年の豊作を願う行事がお正月でした。(鎌倉時代になって、年神様に感謝するという意味も含まれてきました)。
ところで、お正月になると、私たちは必ずといってよいほどお餅を食べますがなぜでしょう。――お餅は、私たち日本人にとって一番大切な穀物である米を原料としています。そのため、お餅は、お正月の代表的なお供え物となったのです。
また、お餅はなぜ丸い形をしているのでしょうか。私たちのご先祖様は、人の魂は丸いと信じていました。だから、お餅は、丸い形をしているのです。ちなみに、正月の大きな餅を「お重ね」といいますが、これは「めでたいことが重なる」という意味があります。
お供えした後、家族みんながこれをいただきます。これは、ご先祖様にお願いした1年の無病息災や幸せが宿ったお餅=お年魂(おとしだま)を、しっかりと身体の中に飲み込み、新しくいただいた力で今年も幸福であるように願うのです。
同じように、お正月のお供え物に献上されたのが「おせち」。「おせち」とは、季節 の節目である「節(せち)」※に節供としてつくられた料理のことで、特に正月につくられるごちそうを「おせち」と呼ぶようになりました。その「お下がり」を家族みんなで分け合いながらいただき、一年の安全や健康などを祈ったのが、「おせち料理」の始まりなのです。
※五節句といい、中国から伝わった季節の節目となる日。奈良時代には朝廷で節目ごとの行事を行いました。1月7日・人日(じんじつ)、3月3日・上巳(じょうし)、5月5日・端午(たんご)、7月7日・七夕(しちせき/たなばた)、9月9日・重陽(ちょうよう)。

「高野山とこうや豆腐」−日野西先生のお話

高野山(金剛峯寺)は、中世よりその周辺の耕作地の領主でした。江戸時代には、年貢としてお米の他、大豆が多く納められていたため、その大豆で豆腐が盛んに作られていました。標高1000メートルほどの山々に囲まれた高野山は、寒さも厳しい土地でした。そのため、豆腐を凍らして食べるようになりました。これが有名な「高野豆腐」です。高野山では、これを土産物としてつくるようになり、これが日本全国に伝えられるようになりました。
ところで、高野山といえば真言密教の聖地。その開祖は、弘法大師です。弘法大師は、承和2年(835)に御入定※されました。その御廟(ごびょう)のある場所が、奥之院です。弘法大師の魂は今のなお生きて人々を救って下さっておられると信じられているため、この奥之院では、毎日明け方と正午前に、弘法大師の食事が運ばれています。そのメニューは精進料理なので、こうや豆腐の料理をお出しすることもあります。
この食事を御廟前の拝殿である燈籠堂(とうろうどう)に運ぶ前に、まず嘗試地蔵(あじみじぞう)にお供えします。これは、嘗試地蔵に毒味してもらう意味が込められています。さらにこの食事とは別に、嘗試地蔵用のお膳もお供えされます。そのお膳の中央には、こうや豆腐5つを供えることが習わしとなっています。
これまでの話からも、高野山では、昔からこうや豆腐が非常に大切な食べ物とされていることがおわかりかと思います。このようにこうや豆腐の背景には、永く尊い歴史があります。また、こうや豆腐は、栄養価自体も高いものであります。すすんで皆様にいただかれることをお薦めする次第です。

合掌

※御廟にこもられて、瞑想(めいそう)に入られること。

嘗試(あじみ)地蔵に供える膳

嘗試の儀礼
(奥で拝む僧が奥之院維那)

◆こうや豆腐の歴史

江戸時代に紀州藩が編纂した『紀伊続風土記』の「高野山之部」には、とても寒い夜に豆腐を凍らせてつくる、こうや豆腐は絶品であると紹介されています。高野山の寺院では、冬になると使用人がこうや豆腐づくりに勤しんだとのこと。こうしてつくられたこうや豆腐は、信者に贈答品として贈られるようになりました。江戸時代には、大名、奉行などへの土産品として重宝がられるなど、諸国に広まっていきました。
こうや豆腐の製法も、しだいに高野山周辺に伝わり、江戸時代後期には、近畿地方から四国までいくつかの産地が生まれたといいます。奈良県の野迫川村も、そのひとつです。1000メートル前後の山脈に囲まれた谷間の地で、厳しい寒さがこうや豆腐の産地として適しており、明治時代に隆盛を極め、昭和20年代後半に自然災害や製法の近代化が原因で衰退するまで、こうや豆腐の名産地でした。このように、こうや豆腐は民間にも広く普及しました。いまもなお、関西の一部を中心に、こうや豆腐を神仏にお供えする地域が残っています。

日野西眞定(ひのにし・しんじょう)

大正13年生まれ。大谷大学大学院仏教文化学科博士課程修了。元高野山大学教授、前奥之院維那(いな)、日本山岳修験学会顧問。現在は、民俗学、修験道などを中心に、著述業や講演などで活動中。仏教民俗学の権威、五来重(ごらい・しげる)氏は恩師である。著書に、『高野山民俗誌 (奥の院編) 』『高野山四季の祈り―伝灯の年中行事』(佼成出版社)など。